月と太陽のはざま


 ここはきっと夜、暗闇。いつからここにいるのかさえ、今はもう思い出すことが出来なくて。
 太陽が何色だったかなんてもう覚えていなくて。光を忘れた私には、太陽の恵みなんて分からない。
 ただ目に映るのは、満ち欠けを繰り返す月。

 屋上に一歩出たら空気の温度がいっきに下がった気がして、私・神崎佐奈は思わず身震いをした。時刻はまだ午後七時半。けれど、多分気温はすでに一桁。これから夜中になるにつれて、もっと気温は下がるだろう。北風が吹きすさぶ中、制服のスカートのままで長時間ここにいたら、確実に風邪をひいてしまう。
「わあ、星、すごく綺麗ー!」
 隣にいた加奈子がほっかいろを振りながら、空を見上げて歓声を上げた。
「うん、思ったより見えるね」
 私も同じように空を見上げて答える。雲のあまりない空には、満天の、とはいかないまでも、結構たくさんの星が見えていた。
「こんな都会でもちゃんと見ようとすれば、こんなに星って見えるんだ」
「冬だし、空気が澄んでるんじゃない?」
 しみじみと呟いた加奈子に私はなけなしの知識を総動員して、もっともらしいことを言ってみる。
「でも、月のところだけ雲がかかっててよく見えないよねー」
 加奈子が残念そうに言う。加奈子が言うとおり、月のところだけ濃い雲がかかっていてぼんやりとしか見る事が出来ない。
 加奈子は月が大好きなのだ。対して私はというと、月は好きじゃない。なぜか分からないけれど、なんだか好きになれないのだ。
「まあでも、月がない方が、星がよく見えていいんじゃない? それに、そのうち見えるようになるよ、きっと」
「――もっと夜中になれば街の明かりも少なくなって、星はもっとよく見えるようになるさ」
「うわっ!」
 重たそうな望遠鏡を担いで現れた部長が、背後からいきなり話に割り込んできた。
「ぶ、部長、いきなり現れないで下さいよー」
 私以上にうろたえた加奈子が抗議する。しかし。
「別に、俺も好きでここにいるんじゃない。邪魔だ」
 どうやら私達は、部長の進路を思いっきり阻んでいたようだった。
「ご、ごめんなさい! あの、重そうですけど大丈夫ですか?」
 加奈子があたふたしながら部長に道を空ける。
「別に、そこまで重くはないから」
 部長は涼しい顔でそう言うと、軽々といった感じで望遠鏡を運んでいった。その後ろ姿をじっと見つめている加奈子を見て、私の顔に笑みがこぼれた。
「ごめん、ちょっとどいてもらえるかな?」
 今度は同級生の宮瀬君が、部長のものより少し小さい望遠鏡を運んできた。
「大丈夫?」
 私もさっきの加奈子のように声を掛けてみる。
「ちょっときつい……。これ、持ってもらえるかな?」
 すると宮瀬くんは、そう言って方位磁針を私に差し出してきた。私はそれを受け取ると、しっかりと両手で握り締め、宮瀬君の少し後ろを続いて歩いた。

 部員数七名。弱小すぎて、生徒はおろか教師達にさえ忘れられることの多い部活。それが、私の所属している天文部だ。
 もっともそれも今日限りのこと。明日にはもう、私は天文部員ではなくなる。
 今日は、私が天文部員である最後の日であり、そして、私が参加する最初で最後の天体観測合宿の日なのだ。

「みんな飽きてきただろうから、トランプやるぞー」
 部長が大きな声でそう言うと、それぞれ思い思いの事をやっていた部員達は、すぐさま一つの机に集合した。私も、ずっと眺めていた数学の教科書とノートを閉じてみんなの所へ向かう。
 今の時刻は午後九時。望遠鏡などを一通りセットし終えて、今は自由時間だ。天体観測は大体十時過ぎくらいから始まる。それまではみんなでトランプタイム。
「あー、ババ引いちゃった、最悪〜」
 まずは、ということで始めたババ抜きで、部長からババを引いてしまった加奈子が溜め息をつきながら言う。部長は口元で少し笑っている。加奈子が叫ぶまで、部長のポーカーフェイスに、誰も部長がババを持っていることに気づかなかった。さすが、部長……。
「って、次に危険なの俺じゃん」
 加奈子の隣に座っている宮瀬君が苦い顔になる。
「宮瀬君、ババ引かないでね。私が危険になるから」
「わかってるって。俺だって引きたくないし」
 そう言った私に宮瀬君はそう返すと、真剣な顔で加奈子が持つトランプを見る。
 なかなか見ることが出来ない、宮瀬君の真剣な表情。
(好きだな)
 ふと、そう思った。
 私はそんな自分に苦笑いをし、溜め息をついた。なんてバカな望みだろう。こんな私のことなど、宮瀬君が好きになってくれるはずはないのに。
 私以外の六人がトランプに熱中している中、私は一人暗い気持ちに抱えていた。なぜなら、私はまだみんなに今日限りで退部する事を言っていないのだ。
 退部の理由は、勉強に集中するため。こんなことを言ったら、きっとみんなは驚くだろう。なぜなら、みんなは私のことを『真面目な優等生』だと誤解しているからだ。
 みんなが誤解するのにもわけはある。私が部活に来るたびに何か勉強をしているためだ。だから、私が勉強をすることが出来ないと言っても、まったく取り合ってくれない。「佐奈ちゃんがそんなことを言ってたら私たちはどうなるわけ?」と、この間も加奈子に言われた。
 でも、本当に勉強することが出来ないのだ。勉強に限らず何もかも、なぜか分からないけれど無気力でやる気が起きない。やれない。家に帰っても、本を読むかインターネットやテレビで時間を浪費してしまう。
 そんなことを一年近く続けていたら、高校入学時には学年で上位だった成績が、今では中の下にまで下がってしまった。そして、とうとう母が部活を辞めろと言い出すまでになってしまったのだ。
 私が部活を辞めたいと顧問の先生に話したのは一週間前。あまり部活に顔を見せる事のない顧問の先生は、私の話を聞くと、「次の合宿に出てからにしたらどうだ」とだけ言った。だから今、私はみんなと共に部室にいる。
「よっしゃー、あがり!」
 宮瀬君が嬉しそうに叫んだ。他の子からは、「えー、マジでー」という声が漏れる。宮瀬君は「頑張れー」と笑顔で言うと、「ちょっと電話しに行ってきます」と言って行ってしまった。みんなからはまた「勝ち逃げかよー」という声が漏れる。
 このみんなと一緒にいられるのも今日で最後かと思うと悲しくなる。部活は好きだった。毎日みんなとくだらないことで騒いで。ここにいる時だけは楽しいと思い笑う事が出来たのに。明日から、私はどうすればいいのだろう。
 最近、「死にたい」と思うことが増えた。授業中、家にいる時、ふと「死にたいな」と思うのだ。このままダメになっていくことしか出来ないのなら、いっそ死んでしまった方が楽なのではないか。もう二度と、頑張る事が出来ないのなら。
「私もあがり」
 そんなことを考えながら、私は宮瀬君の次にババ抜きを終えた。みんなの楽しそうな顔を見ているとなんだか今日で最後だと言えなくなりそうで、私はそっとその場を離れた。

 部室を出たのはいいものの、特に行くあてはない。とりあえず私は、もう少しで始まる天体観測に備え、寒さ対策に教室にジャージを取りに行く事にした。
 ぎゅっぎゅっ、と私が一歩一歩歩くたびに廊下が音を立てる。普段はあまり気にならないその音が、静かな空気の中で、いつもよりずっと大きな音のように思える。窓から差し込む薄明かりが、廊下を、私を、ぼんやりと照らし出す。
(頑張りたいと思うのに頑張れないのが、こんなに辛いなんて知らなかった……)
 変われないまま時間だけがどんどん過ぎてしまって。取り返しがつかなくなったものは、もういくつあるのか分からない。そしてまた私は、部活という居場所をも失うのだ。
 窓ガラス越しに空を見上げる。少し雲がかかったまん丸な月が見えた。確か今日は、満月。
(……!)
 ふと、すごく泣きたい衝動に駆られた。本当に、なぜか。でも、涙は、出ない。泣けないのか、と思った瞬間、心の中にもやもやとした気持ちが膨らんで、私はこらえきれず廊下を走り出した。
 きゅっきゅっきゅっきゅっきゅ……。音が、後からついてくる。長い長い廊下を、私は無我夢中で走る。本当は大声で叫びたかったけれど、どこかに残っていたわずかな理性がそれを止めた。
(私は、私は、もう……)
 今分かっていることはただ一つ。もう、汚く駄目になってしまったということ。私も、そして多分、世界も。
 取り返しがつかないところまでもう来てしまったから、もう綺麗だった時に戻ることは出来ない、ということ。
「くっ……!」
 唇を強くかみ締めて走る。息が苦しいとかそんなことはどうでも良かった。ただ、走らなければいけない、そう、思った。どこか、多分そう、ゴールまで。
 衝動に突き動かされるまま、私は廊下を、階段を、足がもつれるのにもかまわずがむしゃらに走る。
 そうして私が辿り着いたのは、屋上。
 開いたままの扉から、私はそのままの勢いで屋上に飛び出す。熱った体に冷たい空気が一瞬ですうっと伝わり、私ははっとして足を止めた。真正面に見えるのは、夜空を照らすまん丸な月。
「寒いよ……」
 口から勝手に呟きが漏れた。
「寒いよ、寂しいよ、苦しいよ、誰か、神様でも、仏様でも、誰でもいいから助けてよ……!」
 次から次へと言葉が溢れて止まらない。止められない。たとえ、理性によってでも。
「壊れたくない、狂いたくない、やり直したい、やり直したいのに……!」
 ただ、どうすることも出来ず、叫ぶ以外に方法を知らない。こんなことをしてもしょうがないことは分かっていても。
「好きなのに、好きで好きでたまらないのに。こんな駄目な私のまま、好きって言えないまま、辞めたくなんかない、離れたくなんかない……! 一人でなんか、一人ぼっちでなんか、生きていけないよ……!」
 白い息は夜の闇によく映えて、私の願いのように一瞬でかき消されていく。けれど。
「僕なら、ここにいるよ」
 聞こえた声に驚いて振り向くと、宮瀬君が息を切らせながら扉のところに立っていた。
「大丈夫だから。焦らなくていいから。僕ならずっとここにいるから。ちゃんと、ここでずっと待ってるから」
「え……?」
「いつまでも、神崎さんがもう一度頑張れるようになるまで待ってるから。絶対に、いなくなったりしないから。辛いのなら一緒に頑張るから。だから神崎さんは、諦めなくていい、ううん、諦めちゃ駄目なんだ」
「宮瀬君……」
 今まで誰にも打ち明けたことのなかった本当の気持ち。誰かに分かってもらえるわけなどないと、ずっと自分に言い聞かせてきた。人を好きになっても、その考えから逃れられなくて、本気になんてならないと思っていた。そのはずだったのに。
「大丈夫だから、みんなのところに戻ろう」
 私の顔を真っ直ぐ見ると、宮瀬君はさらっとそう、包み込むような優しい笑顔で言った。その瞬間、私の心の中で何かがパァンと破裂した。
 目頭が熱くなって、視界にもやがかかったように、宮瀬君の顔がぼんやりと目に映った。私は自分が「泣いている」ということに、すぐには気づかなかった。
「神崎さん!?」
 ぼんやりとした視界の中で、宮瀬君が心配した顔で近寄ってきた。
「大丈夫? 具合でも悪いの!? 誰か呼んで来ようか!?」
 大きな声で聞いてくる宮瀬君に、私は、
「……ううん、いい。大丈夫だから。みんなのところに戻ろう」
 と、精一杯の笑顔で答えた。
 宮瀬君は「それならいいけど」と言うと、それ以上何も聞かずにゆっくりと歩き出した。私も、少し遅れてあとに続く。
「……ね、どうして屋上なんかに来たの?」
 歩きながら、私は思い切って宮瀬君に気になっていることを訊いた。
「……ん? ああ、俺は電話しに行ったついでに教室にジャージを取りに行ったんだ。そうしたら、神崎さんがすごい速さで走ってるのが見えたから、気になって追いかけたんだ」
 宮瀬くんは私の方を見ないで前を見たままそう答えた。多分それも彼なりの、私に対する気遣いなんだろう。
 私は宮瀬君の背中を見つめながら、さっき感じた気持ちを心の中に鮮明に呼び起こす。消えてしまうことのないように、忘れてしまうことのないように。
(知らなかった。こんなにも、人にかけられた言葉が心に響くなんて) 
 こんな暗く沈んだ気持ちを抱えたまま生きていたくないと、ずっと思っていた。今いるのは暗闇の中で、そこから抜け出ることは出来ないと、もう諦めていた。けれど。
(みんなのところに戻ろうって、そう言ってくれる人がいる。私を待っててくれるみんながいる)
 それだけじゃ駄目なのだろうか。それ以上に一体何がいると言うのだろう。
 変われない自分にイライラして後悔を繰り返して苦しんで。生きていくことをやめたいと一日に何度となく心の中で叫びノートの隅に書き殴っては消し。そうやってもうダメだと思い込み自分を追い詰めて諦めて。
 待っていてくれる人がいるのに。もう一度、頑張れる私を待っていてくれている人がいるのに、私は諦めてしまうのか。
 自分にかけられたすべての期待に答えることはきっと無理だし、多分その必要なんかない。でも。
(私という存在を諦めること、それだけはしちゃいけない、ううん、したくないんだ)
 今まで心にかぶさっていた何かが取れたようだった。もう、大丈夫。みんなのところに戻っても、きっと笑う事が出来る。

 一晩中、私はみんなと天体観測をした。トランプももちろんした。たくさん笑った。笑い泣きもした。楽しかった。不安が全部なくなったわけではなかったけれど、みんなといる喜びを、私はいっぱい感じた。
 そして今私は、日の出を見るために再び屋上に上っている。空はまだ暗い。そして、とても寒い。
「うわ、超寒い〜!」
 加奈子がほっかいろを必死に振りながら叫ぶ。それを見た女の先輩が、「一日で一番寒いのって、太陽が出る直前なんだって」と私達に教えてくれた。
「そろそろ出るぞー」
 部長が大声でみんなに言った。徹夜で疲れて眠りかけているみんなを、日の出は絶対に見なきゃダメだと叩き起こしたのは彼だ。
 みんな喋るのをやめ、東の地平線を見た。まだ、太陽は見えない。
「あっ!」
 誰かが叫んだ。けれど、誰もその人を振り返ろうとはしない。
 みんな、ただ一点を見ていた。眩い光が誕生した場所を。
 微かだった光はだんだんと大きくなり、やがて空全体に光の筋が広がっていく。真っ暗だった空がだんだん紺から青、そして黄色へと色を変えていく。完璧かつ神秘的な、自然のグラデーション。
 初めて日の出を見たわけではないのに、私は太陽、そして明るくなる空から目を反らす事が出来なかった。こんなにも日の出の瞬間が美しいものなのだと、今初めて知った気がした。この瞬間を多分一生忘れない。そう思った。
 こうして本当に少しずつ、けれど確実に、夜は朝になっていく。
『一日で一番寒いのって、太陽が出る直前なんだって』
 さっきの先輩の言葉がよみがえる。
 たとえ光を忘れたと思っても、太陽光の熱を吸収し、また少しずつ地面は暖まり、やがて太陽の時間となる。月の時間は、太陽が休憩するためにあるのかもしれない。
 あたたかさを忘れたと思っても、私が私であろうとする限り、何度でもまた太陽の時間は訪れるのだ。
 月と太陽は打ち溶け合って、一つの時を創り出す。その時に生き、私達は自分を、世界を、創造していくのだろう。
 私は隣で太陽を熱心に見つめている宮瀬君を、部員のみんなを、見た。月と太陽の居場所が空であるように、私の居場所はここにある。
 いつか私も、誰かの世界を照らせる存在となれますように――。眩い光を放っている太陽に、私は静かに目を閉じて、心からの笑顔でそう、祈った。


BACK
55 STREET / 0574 W.S.R / STRAWBERRY7 / アレコレネット / モノショップ / ミツケルドット