潮の香りを運ぶ風はまだ冷たくて、でも、目の前に広がる海を眺めていたら、それさえも心地好く感じた。

 この手の温もりと、潮風の冷たさと、目の前に広がる青い海をきっと、一生忘れはしないだろう。






 待ち合わせの喫茶店に俺が5分程遅れて行くと、彼女は既に席に着いていて、アイスコーヒーを飲んでいた。

 もう、見慣れた光景。

 俺は何時も5分は遅刻する。
 彼女は何時も5分は早く着く、らしい。

 『らしい』とは、俺が彼女より早く着くことはなかったので、それが本当かどうかは分からないのだ。

 ただ、今ではそれが当たり前になっていて、5分遅れてきた俺に彼女が、文句を言うこともなくなった。

「何してるのー?」

 突っ立ってそんな事を考えている俺に彼女は気付き、不思議そうに声を掛けてきた。

「ん、なんでもない」

 俺はそう返事をして、彼女が座る向かいの席へ座る。

「すいません。アイスコーヒーを」

 俺が席に着くと、彼女が俺の分の飲み物を注文してくれた。

 これも、もう、何時ものことだった。

「だいぶ暑くなってきたねー」

 そう彼女は言いながら、グラスの中をくるり。とストローで掻き回した。
 その拍子にグラスの中の氷がカラン。と小さく音をたて、俺はそれをどこか遠くで聞いていた。

「ああ、そうだな」

 そして俺は、彼女の言葉に小さく返事をした。

「お待たせしました」

 そう言って、店員が運んでくれたアイスコーヒーを受け取ると、俺は何も入れず、ストローさえも使わずにアイスコーヒーを一気に飲み干した。

「あらま。そんなに喉が渇いていたの?」

 ふわり。と彼女が笑って訊いてくる。

「ん? んー…なんとなく」

「あはは、なんとなく?」

「そう。なんとなく」

 他愛もない彼女との会話。
 これも何時も通りだった。


 ただ、違うのは、俺は今日、彼女に別れを切り出す。と、いうこと。


 彼女が嫌いになったという訳ではない。

 他に好きな人が出来たという訳でもない。

 ただ、ただ当たり前に一緒に居ることに、違和感を覚えたのだ。

 会って何をする訳でもなく、ただ一緒に居て、他愛もない会話をして、セックスをして、その全てが普通過ぎて。
 嫌になった訳ではないのだが、何故だか違和感を覚えてしまったのだ。

 これでいいのか?

 と。

 それがなんだか申し訳なくて、そして、そんな気持ちのまま彼女と一緒に居ても失礼だ。と、俺は思い、彼女と別れることを決意した。

 しかし、切り出しにくい。

 考え込んでいる俺に、彼女はぽつりと呟いた。

「海……行こうか」

「え?」

 いきなり、しかも小さく呟かれた為、俺は彼女の言葉をよく聞き取れなかった。

「海。海に行こうよ」



 目の前には、陽の光をキラキラと反射させる青い海が広がっている。

 彼女に『海に行こう』と、言われ、特に断る理由もなく、また、最後に行くのも悪くない。と、思った俺は、彼女に言われた通り海にやってきた。

「暑くなってきたけど、まだ風は冷たいねー」

 そう言いながら、彼女は海を眺めていた。
 茶色く染められた短い髪が風に靡いている。
 彼女は前髪を煩わしそうに押さえながらも、目の前に広がる海を嬉しそうに、目を細めて見つめていた。

「何かあるとさぁ、よく海に来たよねー」

 彼女は海から視線を外さずに、落ち着いた声でそう静かに俺に言った。


 彼女は、気付いている。


 俺が、別れ話を切り出そうとしていることに。

「……そうだな」

 俺は小さく答える。

「そういえば、一年前にも海に来たよね。すっごく天気が良かったのに雨が降ってきてさぁ。でも、空は晴れたままで。それが……すごく綺麗だったのを覚えてる」

「そう……だったな」

 あぁ、そういえば、そんな事もあったな。

 彼女は雨に濡れるのを気にせずに『綺麗だね』と、何回も言いながら、海と、空と、俺を見回していた。

 そう、それは凄く、綺麗だったんだ。

 そして、それ以上に、満面の笑みで『綺麗だ』と、言う彼女の表情を綺麗だと、俺は確かに思っていた。

「今日は、雨、降らなそうだね」

 青い空を見上げ、彼女は少し残念そうに呟いた。

「雨が降ったら濡れるだろ。まだこの時期じゃ風邪をひく」

 俺はそう彼女に言うと、目の前に広がる青い海を眺めた。

 冷たい風が吹く海は穏やかだけれど、やはりその風は体を冷やすには十分だった。
 それでも俺は、海を黙って眺め続けた。
 そして、それは彼女も同じだった。

 下手な言葉は要らない。

 わざわざ口にしなくとも、きっと、彼女なら別れを切り出すその理由に気付いているから。

 それでも、ちゃんと言葉で伝えなければ。と、何故だか俺は、そう思っていた。

 しかし、やはり切り出せない俺は、無意識に手のひらを握ったり開いたりしていた。

(なんか、バカみてぇ)

 そんな自分の愚かさに、呆れている時だった。
 俺の指先が彼女の手に辺り、微かに、ほんの一瞬だが彼女の温もりを感じた。
 そこで彼女を目だけで見たが、彼女はこちらを見たり、何か言ったりせず静かに、ただ海を見つめていた。

 そこで何故だか、俺は彼女に触れるのが久しぶりな気がして、彼女に触れた自分の指先を見た。

(いつ、触ったっけ?)

 しかし、そんな事はなく、三日前にも彼女と会っていて、しかもその日はセックスもしていた。

 それなのに何故、俺はそんな事を思ってしまったのだろうか。

 そして、俺は彼女に触れたい。と、そう思った。

 この体はまだ、彼女を求めている。
 だから俺は、ゆっくりと指先で彼女の手に触れ、握った。

 彼女の指先は俺と同じで冷えていたが、握るとまだ、手のひらは暖かかった。

 その温もりに切なくなり、何故だが涙が出そうになった。

(どうして、忘れていたんだろう……この暖かさを)

 そして、彼女が気付いているのに、別れ話をしようとしていた自分の気持ちにも気付いた。

 愚か。と、しか言いようがない理由。
 彼女に、引き止めてもらいたかったのだ。

 確かに、今の当たり前の関係に違和感を持ったのだが、それは、あまりにも長く居すぎて“好き”とか、そんな言葉を口にしなくなり、手を繋ぐこともなくなった。
 それが当たり前過ぎて、だからそれが煩わしく感じてしまうこともあって、でも、それでも一緒に居続けたのは馴れ合いなんじゃないか。と、だから別れよう。とも思ったけれど、それは違った。

 欲しかったんだ。彼女からの言葉が。

 好き。

 と、たった一言。
 それを感じる為に、それを言わせる為に、俺は別れ話をしようとしていたのだろう。

 彼女の手を握る指に力を入れてみた。
 すると、彼女の手にも力が入れられ、それにまた切なくなった。

 潮の香りを運ぶ風はまだ冷たくて、でも、目の前に広がる青い海を眺めていたら、それさえも心地好く感じられた。

 そこで俺は、隣に立つ彼女に視線を移した。
 今度は目だけではなく、顔を彼女に向ける。

 彼女はそれに気付き、こちらにゆっくりと顔を向けた。

 その目は潤み、涙が頬を伝っていたが、彼女は俺と目が合うとふわり。と、微笑んだ。

 そしてまた、お互いの手に力が込められた。

 この手の温もりと、潮風の冷たさと、目の前に広がる青い海をきっと、俺は一生忘れはしないだろう。



「結婚、しようか」



終わり。

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自作小説・版権二次創作サイト「刻の館」の管理人・朔羅さんに相互リンク御礼小説としてプレゼントしてもらいました。
こういうあったかい小説大好きです。どうもありがとうございました!

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