雪を降らせた君へ


 雪が降った。彼女の好きな雪が。


 伊藤香保梨が学校に来なくなって、もう一か月以上になる。
 誕生日の翌日から、彼女は学校に来なくなった。担任は、はじめ風邪だと言っていたが、彼女が学校に来なくなって一週間ほど経った日、
「伊藤はー、何かそのー、いわゆる登校拒否でー」とかみんなの前で言った。担任は彼女のことについてクラスみんなで話し合うと言っていたけれど、結局今日までそういう機会が設けられることは一度もなかった。
 クラスみんなが、彼女のいない毎日を“普通”だと認識している。
 けれど僕は彼女のいない毎日を、何か、とても大切なものが、「教室」という僕にとってどこか息苦しい空間から失われてしまったように寂しく感じていた。


「あたし、人と話すのって苦手なの」
 あれは確か、彼女が学校に来なくなる十日ほど前のことだった。
 午後五時を過ぎた頃、文化祭の準備をしていて、たまたま僕と彼女は教室に二人っきりになった。みんなは材料調達だか買出しだかに行って出払っていた。
 その時、看板に赤い絵の具を塗っていた彼女が、唐突にそんなことを言ってきたのだ。
 暗くなってきたな、と窓の外を見てのんきに思っていた僕は、彼女の突然の告白にすごく驚いたが、「苦手、か。僕も得意じゃないよ、全然」と平静を装って答えた。
「あたしよくいろんな人に、もっと明るくなりなって言われるの。でも明るくしようとして頑張っても、自分が無理してるのが、すっごくよくわかるの。でもね、普段みんなの前にいるおとなしいあたしも、本当のあたしじゃないってわかってるんだ」
 彼女はクラスで人気者、と称される存在とは程遠かった。どちらかと言うと真面目といわれる部類だった。でも、その真面目と言われる者の中でも、真面目だけれど友達も多いとか、勉強がずば抜けてよく出来てみんなに尊敬され頼られるという存在でもなかった。
 ただ目立たない。あまり人とコミュニケーションをとらない。けれど、しゃべればまあ普通。一般的に見ると、そんな感じだった。
「あたし、もっと明るくならなくちゃとも思うの。でも、明るくなりたいのかはわからない」
 彼女は絵の具を塗る手を止めずに、視線を看板に向けたまま言った。
 僕は彼女の言葉を頭の中で繰り返した。
(明るくならなくちゃ、だめなのか)
(明るくならなくちゃ)
 僕は彼女が、クラスメイトに近づきにくいと言われているのを知っていた。なんかさぁ、近寄りがたい雰囲気だよねー。いっつも寂しそうにしてるよねー。話し掛けられるの待ってるっぽいよねー。クラスの、男子とよく喋る目立つ女子達がついこの間もそう言っていた。
 けれど、僕にとって彼女は、誰よりも強さをもっている存在だった。たくさんの無神経な他人に囲まれようとも表情を崩さないところとか、みんなが目を背けるような嫌なことでも目を反らさずちゃんとしっかりと見るところとか、そういうところに彼女の強さを感じていた。そう思っていることを誰にも打ち明けたことはなかったけれど。それは、彼女自身にさえも。
「どうだろうなぁ。別に、絶対に明るくなきゃいけないってことはないと思うけど」
 僕は曖昧に答えた。その時僕の中に、彼女に言えるそれ以上の言葉は見つからなかったから。 
「そっか、そうだよね。ごめんね、変なこと言っちゃって」
 彼女は僕のほうを向くと軽く笑った。その笑顔は、なぜかとても脆そうに感じられ、僕は一抹の不安を感じた。
 今なら、わかる。あれは、あの時彼女が僕に発した、精一杯のSOSだったのだと。


 僕が彼女と初めて喋ったのは、初めての選択美術の時間だった。何でもいいや、と思って美術を選んだらいつも話す奴等はみんな技術や音楽を選択していたため、僕は一人、授業が始まるぎりぎりの時間に美術室に入った。美術室には四人用の机が十個くらいあったが、時間も時間だったため十個中九個はもう埋まっていた。
 そして、その残り一つに、彼女は一人でいた。
 僕は教室を見回してその机以外空いていないのを確かめてから、そこに向かった。今思えば、空いている椅子を持っていって他の机に入れてもらうという選択肢もなかったわけではないのだ。別に仲がいいというほどでなくても、彼女よりは喋れる奴は何人もいた。けれど、僕はその机へと向かった。それは彼女の「何か」に惹かれたせいかもしれないし、運命、という奴のせいかもかもしれない。
 僕は彼女の真正面の席に着いた。彼女は僕のことをちらっと見たきり、視線をスケッチブックへと向けたままだった。
 しばらくすると先生がやってきて、好きなものを描くように、とみんなに言った。僕は言われたとおりにスケッチブックを開き、好きなものを描こう、と気合を入れてみた。が、なかなかいいものが思いつかず、描いては消し、描いては消しを繰り返していた。
 彼女はというと、僕とは対照的にどんどん描きすすめていた。何を描いているのかは筆箱に隠れて見えなかったが、鉛筆の動きで容易にそう想像できた。
 と突然、彼女の鉛筆が床に落ちた。彼女が消しゴムで絵を消している時に誤って落としてしまったらしい。それは床の上を回転しながら僕の足元へとやって来た。僕はほとんど反射的に手を伸ばし、それを拾った。はい、と言ってそれを彼女に差し出すと、彼女は唇を少し震わせてからありがとう、と笑顔を作りながら小さな声で言った。その笑顔は少しぎこちなく、僕のそれと似ている気がして、僕は彼女に親しみを覚えた。
 そして、それを境に僕と彼女は選択美術の時間にたまに会話をするようになった。いつしか彼女のぎこちない笑顔がやわらかいものへと変わっていたことに、僕はなかなか気づかないまま。


『好きなものは、雪です。理由は、雪を見ると、心が洗い流される気がするから、です』
 僕は窓の外で吹雪いている雪を見ながら思い出す。
 あれは、四月の自己紹介の時だった。彼女は声を少し震わせてそう言った。少しでも自分をアピールしようと頑張る人ばかりの中で、彼女だけが自分の強い思いを、その短いセリフの中に込めている気がした。
 そして、その言葉はその時からずっと、僕に、彼女を思う時、彼女のイメージと共に雪のイメージを、雪を考える時、雪のイメージと共に彼女のイメージを、もたらすのだ。
(そういえば、選択美術の時に彼女が描いていたのも雪だったな……)
 彼女は絵を描くのが特別上手かったわけではなかったけれど、彼女が描いたその雪の絵は僕の心に訴えかけるには十分すぎるほど綺麗だった。技術を越える「何か」が、確かにその絵にはあったのだ。
 彼女の、雪に対する思いが。
 だから今日、朝目覚めて雪が降っているのを見て、僕は一番に彼女を思った。そして、よく分からない衝動に突き動かされて、いつもより二十分も早く登校した。
(もしかしたら、今日なら、彼女が来ているんじゃないか。そう、思ったんだ)
 けれど、もちろん彼女が来ているわけはなく、僕は愚かな希望をもった自分を嘲笑した。
 午後になった今でも、雪は止まない。
 彼女も、自分の家でこの雪を見ているのだろうか。 
(結局彼女は、この日常に絶望したんだろうか)
 彼女が学校に来なくなって、始めのうちはクラスでもその話題が出た。けれど、心配の声などはほとんど聞かれなかった。やっぱりあいつ暗いからさー。みんなと仲良くなる努力、してないよねー。自分でなんとかしろっつーの。別に、いじめられてるわけでもないのにさー。そんなことをみんな口々に言っていた。僕はそれに同意することもなく、また、そういうことを言ってはだめだと注意することもなく、ただそれを聞いていた。
(結局彼女は、彼女の強さを貫き通すことが出来なかったんだろうか)
(彼女は、日常に、みんなに、負けてしまったんだろうか) 
(強く生きることは、不可能なんだろうか)
 僕には持てなかった強さを持っていた彼女。彼女は、明るくなければだめだと、そう答えを出してしまったのだろうか。あの時僕が、もっとちゃんと彼女の問いに答えることが出来ていれば、今彼女はこの教室にいたのだろうか。
 一緒に、彼女が好きだというこの雪を、見ることが出来たのだろうか。
(ん?)
 ふと窓の外を見た僕は、真っ白なグラウンドに傘を差しながら踏み入っていく人影を発見した。 
(授業サボって誰か外で遊んでるのか?)
 度胸あるな、などとのんきにそれを見ていた僕は、あることに気づいて思わず声をあげそうになった。
(あの傘……!!)
 あの、深い青色の布地に白いラインが二つ入った傘。あれは。
(彼女の傘じゃないか?!)
 僕は、あまりよくない目をじっと凝らしてその人影を見た。心臓がどきどきと高鳴る。でも、傘に隠れて誰だか確認することが出来ない。僕は人影がこちらを向くことを切実に願いながら、授業をそっちのけで、食い入るように観察を続けた。
 人影はグラウンドの真ん中くらいまで進むといったん止まった。そして、足を引きずるようにしてゆっくりとまた歩き始めた。
(一体、何をする気なんだ?)
 一分。二分。三分。人影の行動に変化はない。足を引きずるようにゆっくりゆっくりと歩いているだけ。たまに同じところを引き返したりしている。グラウンド上の雪には、人影が歩いた跡が少しずつ増えていく。ただ、それだけで。
(……ん? 跡? ……!!)
 突然、人影が何をしようとしているのかがわかった。文字だ。雪に文字を書こうとしているのだ!
 その時、人影が向きを変えて校舎側へと歩き始めた。一瞬、本当に一瞬、傘の影からその姿が見えた。
(!!)
 長い黒髪。中くらいの背。そして、顔。
 間違いなく彼女だった。僕がこの一か月間会いたいと、心から願っていた人。
(一体、何を書くつもりなんだ?)
 心臓がさっきよりも速く鼓動を打ち始めた。期待と畏怖。彼女は僕に、常にその二つを抱かせる。
 僕は彼女が文字を書き終えるのを待った。彼女は本当にゆっくりと、けれど着実に、雪の上に自分の意志を刻んでいく。
 どれほどの時が経っただろうか。雪の上に、四つのひらがなが現れた。


   い   き   た   い


 僕は、がたっと大きな音を立てて椅子から立ち上がった。先生とクラス全員が驚いたように僕を見た。けれど、今の僕にとって、そんなことはどうでもいいことだった。僕は先生の静止の声を振り切り教室を飛び出した。
 三階から二階へ。二階から一階へ。自分の足の遅さをもどかしく思いながら、少しでも速く、と階段を駆け下りる。ダンダンダン、と授業中の静けさの中に靴音が響き渡る。
 僕の頭の中は、彼女への思いでいっぱいだった。
(彼女は、こんな毎日に絶望していないんだ。こんな中でも、強く生きたいと思っているんだ。たとえ傷ついても、負けないんだ。彼女が、彼女の強さを失うことは、決してないんだ)
 常に、人と距離を置いていた彼女。美人でもなく、勉強や運動がすごく得意なわけでもなく、人との関係を築くのか苦手だと、苦笑しながら、あの日僕に打ち明けてくれた彼女。
 たとえまわりのほとんどの人が、彼女の悲しみを、苦しみを、寂しさを、理解し得なくとも、彼女は「いきたい」と強く願うのだ。
 僕は、外履きに履き替えることさえしないで、雪の降る中グラウンドへと走った。途中滑って転びそうになったが、何とか持ちこたえ、すぐに体勢を立て直して彼女の元へと急いだ。
 僕が着いた時には、彼女はすでにグラウンドにはいなかった。僕は正門へと方向を変えた。
 雪の中を正門へとひたすら走る。今日、今この時彼女に会えなかったら、もう二度と会えない気がした。
(伝えたいことがあるんだ。今までずっと言えなかったことが。言いたかったことが)
 校舎の角を曲がる。正門が見えるところまで行くと、門の近くに彼女の姿が見えた。僕は歯を食いしばり、いっそうペースをあげて、彼女の元へと走った。
 彼女が振り向いた。僕を見て、驚いたように目を見張る。僕はやっと、彼女に辿り着いた。
「あ、あたしっ……」
 彼女は何かを言おうとしたけれど、言い終わる前に言葉を詰まらせた。彼女の目から涙が溢れた。僕はそんな彼女に、息を整える間も惜しんで言った。
「君は、すごく、きれいだ」
「えっ……?」
 彼女がぽかんとした顔で僕を見た。涙をその目に溜めたまま。
「君は、誰よりも、きれいだ。君は、誰よりも、強さを、持っている。僕にとっては、君が、一番なんだ」
 彼女の目がだんだんと大きく見開かれ、今までより大粒の涙が目から溢れた。
(君が、僕の心に雪を降らせたんだ。真っ白なきれいな雪を。儚く、けれど強さを持つ雪を)
(ねえ、僕ら、お互いを温めあえるかな? 君と一緒なら、強さを見つけられる気がするんだ)
 僕は、彼女の肩にそっと触れた。彼女は一瞬びくっとしたが、僕の胸に顔をうずめた。
 雪が、いつの間にか止んでいた。太陽の光が雲の間からかすかに差していた。
(ねえ、君が雪に書いたあの文字が消えてしまっても、僕の心の中から、君があの文字に託した思いが消えることは決してないと誓うから。だから、一緒にもう一度始めないかい?)
 彼女が顔を上げた。赤くなった目に、もう涙はなかった。
 彼女がうなずいた。僕もうなずいた。


 ねえ、きっと僕らは、これから真っ白な雪に、僕らの人生を刻んでいくことが出来るよね?


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