描く海


 白いキャンバスにのせる最初の色を、僕らはずっと探していた。
 
 絵描きになりたいと思うようになったのは、小学校に入る前のことだった。母親に無理やり入れられたお絵描き教室で、僕は、それまで女の子の遊びだと思っていたお絵描きが、とてもおもしろいということを知った。クレヨンと絵の具で自分の好きなように作れる世界に、僕はどんどんのめりこんでいった。
 教室の先生も両親も、僕の絵を「すごく上手だね」と言っていつも笑顔で誉めてくれたし、僕の絵はコンクールに出すとよく入賞した。だから僕は、自分には絵の才能があるのだと思い、絵描きになろうと思うようになった。
 コンクールで一度も大きな賞をとることがなくても、絵を描くのがすごく好きだという気持ちさえあれば、夢は必ず叶うと信じていた。
 現実なんて知らないまま、絵描きになるという夢を抱き続けてきた。
 しかし、小さい頃からの夢を叶えるために僕が美大を目指したいと言った時、両親は「美大はちょっと……」と困惑した顔で言葉を濁した。高校の美術教師も同じような反応を返した。
 その時になって僕は、やっと現実の厳しさを知った。
 実績の大切さ。なりたい気持ちだけでは、夢を現実にするのが難しいこと。
 だから、全日本の高校美術コンクールに、僕は賭けていた。

 展示会場に歩をすすめると、そこには予想以上に多くの人がいた。
 コンクールの入賞作品を飾った展覧会なだけあって、見に来ているのは高校生くらいの子供とその親という組合せが多かった。
 ――コンクールで、僕の作品は一番低い賞をとっていた。数十作品が入る賞。親や先生を認めさせるには、全然足りなかった。
 挫折感はあった。それでも、十年以上の間持ち続けてきた夢をそう簡単に諦められるわけがなかった。
 自分の絵を見ず知らずの人がどんな風に見るのかを知りたい、と僕は思った。自分の絵を見て何か感じてくれる人がいるのだろうか、と。
 そして、その展覧会にやってきた。
 会場に入って最初に目に入ったのは、人だかりができている絵だった。よく見えなかったが、雑誌で見た最優秀賞の絵だろうと予想がついた。
 同い年の女の子が描いた、空想画。荒々しいタッチで情熱的な色づかいがされた右側と、薄い、透明感あふれる色づかいがされた左側が対照的だったのが、強烈な印象として残っていた。入賞者の名前は確か、三枝由絵。由絵という名前が変わっていて覚えていた。美術界の注目株、と顔写真の横に書かれていた。それを見た時、自分との差を感じさせられた。
 その作品を見るのは後回しにして、当初の目的を果たすため、僕は、自分の作品が飾られている場所を探した。やっと見つけた場所は展示会場の隅で、人はあまりいなかった。
 そして、僕の描いた絵の前には、一人の女の子が立っていた。
 作品の前を通り過ぎて行く人に溶け込まず、そこに立って視線を僕の絵から反らさないでいる女の子。
 僕は熱心に絵を見つめるその子に声を掛けることができないまま、彼女のすぐ後ろに立ち尽くした。
 沈黙のまま、どれくらい時が経っただろう。
 耐えきれず、彼女の顔をそっとのぞき込んだ僕は、彼女の頬が濡れているのを見た。それが涙だとわかった時、僕は思わず彼女に声を掛けた。
 振り返った彼女の顔を、僕は忘れない。それが、僕と彼女・三枝由絵の出会いだった。

   *      *      *

 ずっと、絵なんか描かないで生きられたらいいと思っていた。

 高二の夏という有意義に過ごすべき季節に、私は何も見出せないまま毎日を過ごしていて、その日もそんな中の一日になるはずだった。
 美術展に行ったのは、本当にきまぐれで。家にばかりいるのはよくないと母親に言われて、特に行きたい場所もなかったから、ふと思いついたそこに行ってみただけだった。
 会場につくと予想以上の人込みで、人込み嫌いな私は早々と来たことを後悔した。けれど、ここまで来て今更帰るわけにもいかず、私はなるべく人の少なそうなところに飾られた絵を中心に見てまわった。
 そして、あの絵に出会った。
 会場の片隅にひっそりと飾られた、海の絵。
 青い空と海。そして、波しぶきと雲。
 微妙に異なった色をした、それぞれの青と白とが光っていて、涼やかなのにどこか心をあたたかく包み込むような、そんな絵。
 構図が特にめずらしいわけでもないのに、他のどの絵よりも惹きつけられた。
 何でだろう、と不思議に思った。考えて、考えて、その絵をずっと見て。そして、わかった。
 これを描いた人は、絵を描くのがすごく好きなんだ。そう思った瞬間、なぜか目から涙が溢れた。
 その時声を掛けてくれたのが、他でもない、その絵を描いた三木君だった。
 彼は私のことを知っていて、私が誰だかわかると私の名前を叫んだ。一瞬周りの人達が私達の方を見たけれど、私が誰だかすぐに気づいた人はいなかったみたいだった。ほっとしたけれど、もし気づかれたら面倒だなと思って、私はその人を促して会場から出た。
 彼はまだ驚いた顔をしていたけれど、少し落ち着いてきたようで、私の名前を確認し、自分の名前を名乗った。そして、よかったら少し一緒に話せないか、と訊いてきた。私は人と話すのがあまり得意ではないし、それに私の描く絵に興味を持って近づいてくる人が好きではなかった。
 けれど、その時私は、あの海の絵を描いた人と話したいと思った。そして、彼と美術館の中にあった喫茶店に入った。
 彼は、私にどうして泣いたのかを訊いてはこなかった。訊かれたところで私は多分答えることができなかっただろう。
「僕の絵をずっと見てたけど、どう思った?」と彼は私に訊ねた。
 彼の目には不安と期待が見て取れて、彼の絵に対する真剣な気持ちが伝わってきた。私はさっき見て思ったことをそのまま伝えてから「絵がすごく好きみたいね」と彼に言った。彼は「うん、すごく好きだよ」と笑顔になって答えてから「でも、君みたいに才能ないから」と表情をかげらせた。
 私は、どうしたら、と思った。
 どうしたら彼に、大事なのは才能などではないと。
 彼の絵には一番大事なものがあって、私の絵にはないのだということを伝えられるのだろうと思った。
 でも、うまい言葉は見つけられなくて、初対面の彼に私の絵に対する思いを打ち明けることはできなくて、私は言葉を返せないまま下を向いた。
 沈黙の中で私は、このまま彼と別れて終わりになるのは悲しいな、と思った。
 私の感情を動かす絵を描ける人。絵に対して、私とは正反対の思いを持つ人。誰よりも遠いような気がする一方で、この人にならいつか私の気持ちを話せるような気がした。
 あの、と私が声を掛けたのと、彼がそうしたのはほとんど同時だった。私達はお互いに一瞬だまって、彼が先にあのさ、と切り出した。
「僕の絵をこんなに真剣に見てくれる人に会ったのは初めてだから、よかったらまた会って話したり、僕の絵を見てもらったりできないかな」
 私はそれを聞いて、しばらく黙って、それからうなずいた。そして「私も今同じようなこと言おうとしたの」と彼に言って、私達はメールアドレスを交換した。

   *     *     *

 彼女とメールアドレスを交換したその夜、僕は早速彼女にメールを送ることにした。タイミングを逃がして、このままメールを一度も送らないということになったら嫌だったから。
『三木です。今日は三枝さんに会えて、本当に感激でした。』というところまで打って、僕ははたと手を止めた。勢いでメールを送るまでになったが、彼女の描く絵のこと以外で彼女について僕が知っていることが皆無であることにやっと気づいたのだ。僕は悩みに悩んで、『ところで、三枝さんはいつから絵を描いてるんですか?』という、前後のつながりを無視した質問を付け加えて彼女に送った。
 彼女からのメールは次の朝になって着た。
『三木さんへ。メールどうもありがとう。私の方こそ、素敵な絵を描く人と知り合えて嬉しいです。質問の答えですが、私は中学生の時から絵を描いています。三木さんはいつから描いているんですか?』
 それを読んで僕は驚いた。僕よりも絵を描いている年数はずっと短いのに、人に認められる絵を描ける彼女に嫉妬を感じた。と同時に、彼女の不思議な才能についてもっと知りたいと思うようになった。僕はすぐに彼女にメールを送った。
『僕は小学校に入る前から描いています。中学生から描き始めて、そんなすごい絵が描けるなんて、本当に羨ましいです。三枝さんはどんな絵をよく描くんですか?』
 彼女からの返事は、次の日の朝に着た。
『全然すごくないですよ。長い間絵を描いている三木さんの方がずっとすごいと思います。私がよく描く絵ですが、私は空想画ばかり描いています。風景画とかは苦手なので。』
 それを読んで、僕は彼女が描いた空想画を思い出した。激しさと静けさが共存した彼女の絵。一体彼女は、何を思ってあの絵を描いたのだろう?

   *      *      *

 彼から三通目のメールが着た時、私はすぐにそれを読んだ。
『三枝さんは空想画をよく描くんですね。僕は風景画の方がよく描きます。ところで、三枝さんはいつも、何を考えて絵を描くんですか?』
 まただ、と思った。彼のメールはいつもストレートだ。好奇心のまま思いついたことを訊いてきているのがよくわかるそんなメールが、私は嫌いではなかった。
 問題は、私の方にある。
 彼のメールを読むたびに、誰にも話さずに隠してきた本音を、全部彼に話してしまいたくなる私自身に。
 こんなことは初めてだった。今までずっと、こんな気持ち、誰にもわかってもらえないと思ってきた。特に、絵を描く人には。
 なのに、彼には聞いてほしいと思う。
 私は自分自身を落ち着けるために、目をつぶってゆっくりと呼吸をした。彼に返信する前に、自分自身の答えを出すために――。

 中学時代、毎日が息苦しかった。
 成績主義の先生、何もわかってくれない親、深いところまでは話さない友達。
 誰にも伝わらない思いが、日々蓄積されていった。心に抱えるにはあまりにも重過ぎる感情。それをぶつけられる唯一のものが、絵だった。
 絵に自分の思いをぶつけても、誰にも非難されることはなかった。嫌われることはなかった。それどころか、先生は私の描いた絵をすばらしいと言って誉めた。コンクールに出すと、毎回欠かさず良い賞に入った。
 絵を描くことは私にとって、自分の思いを表現する唯一の手段であって、それ以上のものではありえなかった。絵を描く楽しさなんて、私の中に存在しなかった。
 絵に感情をぶつけながらでしか、現実逃避しながらでしか生きられないのがどれだけ辛いかなんて、一体誰にわかってもらえただろう。周りの人は、作品の良し悪しでしか評価を下さない。私の思いになど、誰も気づいてはくれない……。
 いつからか私は、この思いのすべてをわかってもらうことを諦めた。自分は一人なのだということに気づいてしまった。
 一人なのにそれでも生きることしか選べず、絵を描くことでしか、生きている自分を表現できない――。

 私は目を開けて、彼への返信を打ち始めた。
『私はいつも、自分の気持ちと向き合いながら絵を描いています。孤独とか、苛立ちとか、願いとか、それら全部を絵に込めているんです。』
 そこまで打って、私は一度手を止めた。ここで止めるべきだと一瞬思った。でも、本当に伝えたい言葉は……。
『私も三木さんみたいに、綺麗な絵が描けたらいいのになって思います。』
 私はそこまで打つと、メールを一時保存した。明日の朝、彼に送るために。

   *      *      *

『私も三木さんみたいに、綺麗な絵が描けたらいいのになって思います。』
 この一文を読んだ時、僕は、彼女の今までの言葉は、全部彼女の本心からのものだったのだと直感した。
 彼女は展覧会で会った時から何度も僕の絵を誉めてくれていたけれど、彼女の言葉を素直に嬉しいと思う一方で、「彼女の方が絵の才能があるんだから、どうせお世辞を言っているんだろう」と思う気持ちもあったのだ。
 でも、この言葉はするりと僕の心の奥に入ってきて、そんな疑いの念を一瞬にして消した。
 僕は、メールを最初から読み返した。
『私はいつも、自分の気持ちと向き合いながら絵を描いています。孤独とか、苛立ちとか、願いとか、それら全部を絵に込めてるんです。』
 孤独、という言葉が目についた。
 ふと、彼女が絵を通して見ている世界は、僕が絵を描く時に見ている世界とは全然違うのかもしれない、と思った。彼女に才能があることを知って、僕は、彼女も絵を描くことが好きなのだろうと勝手に思っていたけれど、本当にそうなのだろうか?
 彼女に訊いてみたい、と僕は思った。でもそれは、彼女の世界に踏み込むことになってしまうかもしれない。
 僕は、彼女に返すべき言葉を考えた。そして、今僕が思うことをそのまま送った。
『綺麗な絵、なんて言ってもらって本当に嬉しいです。でも僕は、三枝さんみたいにみんなに認めてもらえる絵を描けたらいいのにって思います。』
 彼女からの返信は、これまで通り次の日の朝に着た。
『一番大切なのは、絵を描くのが楽しいという気持ちだと思います。そして、自分の作品を認めること。二番目に大切なのは、一人の人がその作品を認めてくれること。たくさんの人に認めてもらうことも確かに大切だけれど、それはきっとそれらの次に大切なことだと思います。三木さんの作品は、一番目と二番目に大切なことを満たしているから、私の作品よりずっとすばらしいです。』
 一番大切なことを忘れかけていた自分に僕は気づいた。
 現実の壁なんかに妨げられるほど、僕の絵を描きたい気持ちは弱くない。そう思いながら僕は、認められなければだめだと思ってしまっていなかっただろうか。
 絵描きになることは確かに僕の夢だけれど、夢が叶わなければすべてが無駄なわけじゃない。大事なのはきっと、夢を目指すその過程なのだ。
 描きたいと思う気持ちがあって、それを認めてくれる人がいて、それ以上に何がいるだろう?
 彼女は絵を描くことの意味をよく知っている。僕なんかよりもずっと。けれど。
『私の作品よりずっとすばらしいです。』
 この文から伝わってくるのは、彼女が自分の作品を認めていないということ。彼女の絵は、彼女の思いを込めたもの。彼女は、もしかして、自分自身を認めることができないでいる……?
 僕は、彼女にメールを送った。
『三枝さんが絵に対して思っていること、もしよかったら聞かせてもらえませんか?』

   *      *      *

 彼からの五通目のメールを読んだ時、私は泣きたくなった。彼に私の気持ちが少しでも伝わったことが嬉しくて。
 自分の気持ちを聞いてもらいたくて思わせぶりな内容のメールを彼に送った。メールのやり取りをするだけの関係だから、万が一嫌われてもかまわないと自分を納得させた。だけど、彼からのメールを見る時、もし嫌われたらどうしようと思って、手が震えた。
 嫌われなかった。でも、彼からのメールにどう返信すればいいのかわからなかった。
 私が絵に対して思っていること。
『三木さんは、自分は一人だと思ったことがありますか?』
 次の朝、彼にそう送った。彼からの返信はいつもより数十分遅れで着た。
『僕は、正直に言って一人だと思ったことはあまりないです。三枝さんはそう思うことがあるんですよね? どうしてそう思うのか聞かせてくれませんか?』
 やっぱり彼は私は違う世界に住んでいるんだ、と私は思った。それは彼にメールを送る前から明らかだったけれど、彼に尋ねずにはいられなかった。
 違う世界に住む人。それでも、私の話を聞いてくれようとする人。
 私はメールを打った。
『私は一般的に見たら幸せなんだと思います。でも、ふと、どんなに親しい人でも、どれだけ一緒にいても、私の本当の気持ちをわかってはくれないんだって思うんです。そして、自分は結局一人なんだ、と孤独を感じるんです。その気持ちをぶつけられる相手なんかいないから、私は絵にそれをぶつけているんです。』
 次の日の朝、そのメールを彼に送った。彼からの返信は、前日のメールよりも数十分遅れで着た。
『三枝さん、もしよかったら一緒に海に行きませんか?』

*      *      *

 彼女を海に誘ったのは、彼女に、僕が描いた海を見てほしかったからだった。
 自分は一人だという彼女。
 僕が彼女の気持ちを理解することはかなり困難で、不可能なのかもしれなかった。それでも僕は、彼女の思いを、わからないから聞かないのではなくて、理解しようとしたいと思った。
 話を聞く以外に、僕が彼女にできることなんてあるのだろうか? そう考えた時、最初に彼女と出会った時のことを思い出した。
 僕の描いた海の絵を見て、彼女が涙していたことを。
 海を見に行こう、と思った。それしか、彼女の心にうったえかけられるものはない気がした。
 彼女にメールを送ると、いつも通り、次の日の朝に彼女から返信が着た。
『はい、行きたいです。』
 簡潔なメールに僕はちょっと苦笑して、そして、日程を打ち合わせた。

 待ち合わせ場所の駅のホームに着いた時、彼女は日陰のベンチに座っていた。彼女の希望で午後から出掛けることになっていたため、ホームには人がまばらだった。
 彼女は僕に気づくと「こんにちは」と言った。僕も「こんにちは」と返した。僕らはお互いを見つめたままその場から動かず、そうしているうちに着た電車に乗った。
 電車の中で僕らは何もしゃべらなかった。会うのが二度目でうまくしゃべれないというのもあったけれど、彼女といるとなぜか落ち着いて、焦ってしゃべろうという気にはならなかったのだった。
 目的の駅に着くと、僕らは一瞬視線を合わせて、無言のまま電車を降りた。そして駅を出ると、僕らは海を目指してゆっくりと歩き始めた。
 もともとあまり観光客の来ない海だということもあって、親子連れの他には誰ともすれ違わなかった。町の中みたいに空気がざわざわ騒がしくなくて静かだった。彼女は時折周りを見回しながら、僕の隣を歩いていた。
 やがて、海が見えた。僕が前に絵を描きに来た時と、あたりの様子は変わっていなかった。
 海岸にはもう夕方ということもあって、帰り支度を始めている数人の海水浴客しかいなかった。僕らは人がいない岩場へと足を向けた。
 岩場につくと、僕らは少し高いところにある岩に腰をおろした。
「ここで絵を描いたの?」
 彼女が言った。
「うん、そうだよ」
 僕は答えた。二人とも、メールの時と違ってくだけた口調になっていた。
 日が暮れてきて朱色に染まりかけている空と雲、空の色を反射している海、白い波しぶき。僕らはそれらをただ黙って見ていた。
「海は好きだけど、寂しい気がする」
 彼女が視線を海に向けたまま言った。
「広くて、何でこんなにも広いんだろうって思うくらい広くて、冷たくて、寂しい……」
 彼女はそこまで言うと、足で海水を蹴った。跳ねた水は陽光に照らされて光って、元の海水へと戻った。
「僕は海を孤独だとは思わないよ」
 僕は彼女ではなく目の前に広がる海を見て言った。
「海は、ここからじゃわからなくても、どこまでも続いているから。広くて広くて、世界中を巡って一つになってるんだ。どこかの海岸で、僕らと同じようにこの海を見てる人がいる。孤独なんかじゃないよ」
 彼女が驚いた顔で僕を見た。僕はそんな彼女にちょっと笑いかけた。
 彼女はまた海の方に視線を戻すと、しばらくして「そんな考え方したことなかった」と呟いた。

   *      *      *

「一人でいたら、どうやったらこんな気持ちから抜け出せるのかわからなくなっちゃったの」
 私は足元の海に視線を落として言った。
「孤独とか、そんなことばかり考えていたいわけじゃなくて。絵も、楽しく描きたいって思うのに、現実逃避にしかならなくて。何とかしたい、変わりたいと思う一方で、どこかで諦めてた。だけど、あなたのこの海の絵を見たら、気持ちが、誰にも分かってもらえないって思っていたのに、抑えられなくなっちゃった」
 しゃべっているうちに涙が出てきて、私はそれを見られないように顔をもっと下に向けた。
「きっと、絵を描くのが大好きなあなたの絵だから、あなたが孤独じゃないこの海を描いたから、私の心に伝わったんだと思う」
 涙は止まらなくて、私は手でそれを拭いながら、こんなに泣いたのはいつ以来だろう、と思った。彼の絵に出会うまで、辛くても泣くこともできていなかった。ただ一人で寂しいと呟いていることしかできなかった。
「きっと、そんな君だから見えるもの、わかるものもあるんだと、僕は思うよ」
 彼がゆっくりとそう言った。彼の言葉は優しくて、あたたかくて、私は思わず彼の方を振り向いた。
「一人で絵を描くのが辛いのなら、一緒に描こう。そうしているうちに、楽しいと思えるようになるかもしれないし。君が絵を描くのを楽しいと思えるようになったら、一緒にこの海を描こうよ」
 彼が包み込むような笑顔で言った。
 私が本当に探していたのは、すぐ近くにいてくれる人でも、すべてを分かってくれる人でもなくて。不安になって手をのばした時、その手を握ってくれて、気持ちをわかろうとしてくれる人だった。
 その人は今、私の目の前にいた。
 私は彼に手を伸ばした。彼はその手をしっかりと握って、私に微笑んだ。
 私も彼に、初めての、心からの笑顔を向けた。

   *      *      *

 白いキャンバスに最初の色をのせる時はいつも、筆を持つ指先が小刻みに震える。繰り返し構想を練ってからでも、それが変わることはない。
 けれど。
 一緒に描いてくれる人がいたら、私達の世界は少しずつ広がって、やがて確かなものへと変わっていく。
 ――少しずつ、近づいていく。


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