コスモスの季節


 どうしても、忘れられない季節がある。

 車が正門をくぐると、私は懐かしさが胸に込み上げてくるのを感じた。
 十年ぶりに訪れた小学校。この場所で感じた喜びも悲しみも恐怖も苛立ちも、未だに私の心の中で風化してはいない。
 車を駐車場に停め、コンクリートに降り立つ。十年前より高い目線で見る小学校は、あの頃感じていたのよりずっと小さく、けれど、古びた校舎の壁の感じや聞こえてくる子供達の楽しそうな声、駐車場に積もった落ち葉もあの頃のままで、私はここに戻ってきたのだ、と感じた。
 キーンコーンカーンコーンという懐かしいチャイムが聞こえたのを合図に、ここに来た目的を実行に移すため、私は迷うことなく思い出の場所へと足を向けた。
 あの秋のことを思い出しながら――。


   *     *     *

「今日から数時間、花壇のコスモスの絵を描いてもらいます」
 図工の時間にそう先生が言った時、私はとても嬉しかった。
 絵を描くのはすごく小さい頃から私の大好きな事の一つであったし、コスモスの花もピンクで可愛らしいと思っていた。
 それに、外に出ての写生なら、教室の中と違って一人でいても誰にも何も言われることはなかったから。
 スケッチブックを持って誰よりも早く一人で花壇に向かうと、私はなるべく人が来なさそうな、校舎から一番離れた花壇の隅の所を描く場所に決めた。
 少しすると、がやがやと喋りながら他のみんなが花壇へと歩いて来た。私はみんなと顔を合わせないように反対を向いて筆箱から鉛筆を出しながら、「どうか誰も私の近くに来ませんように」と心の中で祈った。その祈りが通じたのか、がやがやは私の方まで近づかずに遠くの方で止まった。
 私がほっとして顔を上げた瞬間、誰かが私の方へと近づいてくる音がした。私はびくっと体を縮こまらせて、反対側を向いたままその音に神経を集中させた。
 足音の主はゆっくりと静かに近づいてくると、無言のまま少し離れた場所に座ったようだった。数十秒が過ぎ、私が恐る恐るそちらを盗み見ると、思いがけず相手と目が合った。
 それは、クラスから浮いている男の子、渡部君だった。


 私は四年生の時にこの小学校に転校して来て以来、ずっといじめられっ子だった。
 いじめられた理由なんてよくはわからない。ただ、勉強が得意ではなくて、運動が出来なくて、とろくて、イマドキの話についていけなければ十分な理由になるらしかった。
 元から人見知りだった私の人見知りはさらに激しくなり、それを面白がってかいじめはエスカレートした。けれどそれも、六年の秋頃にはたまに嫌がらせをされる程度にまで落ち着いていた。
 そんないじめられっ子の私とは別にクラスから浮いていたのが渡部君だった。
 彼は別にいじめられているわけではないのに誰とも話さず、いつも一人で何か考え事をしているようだった。ぼーっとしていそうなのに成績は良く、運動もまあまあ出来た。彼がいじめられなかったのは多分そのためだろう。
 私はいつもそんな彼を少し羨ましく感じ、また同時に不思議な人だな、と思っていた。


 花壇いっぱいに咲き誇ったコスモスは秋風にそよそよと可愛らしく揺れていた。
 コスモスといったらピンクというイメージを持っていたが、よく見てみると、白、薄ピンク、濃いピンク、赤紫など様々な色の花があった。
 私はそれらの八枚の花びらと細い茎、葉を丁寧に画用紙に下書きし、自分でこれは良い作品になるかも、と思いながら着色を始めた。
 ピンクや白、赤など、パレットには私の好きな明るい色が広がっていた。私はそれらを細い筆先に少しつけ、鉛筆の線からはみ出してしまうことのないように、細心の注意を払いながら画用紙の中の花びらに塗っていった。
 絵を描いている時間はただ楽しく、嫌な事をすべて忘れられた。私は誰にも邪魔されずにずっとそうしていたいと思っていた。けれど、絵を完成させるのに残された時間はあと三時間ちょっととなっていた。
 残り少ない時間で一番良い物を完成させられるように、私は真剣にコスモスと画用紙を見つめていた。
 しかし。
「ひーろみ」
 突然の声に驚いて顔を上げると、同じクラスの女の子達が三人、にやにやと笑いながら私を見下ろしていた。私の体が恐怖で固まった。
「真剣に描いてるじゃん。あたし達にも見せてくれない?」
 クラスで一番目立ち、いじめグループのリーダー格だった利奈が、にっこりと口の端を上げて笑って言った。
「え……」
「ほら、見せなよっ!」
 利奈の取り巻きの子が何も言えないでいる私から画用紙を無理やりひったくった。その拍子に私の手から滑り落ちた筆が画用紙をかすった。
「や、やめっ……!」
「何? 口答えする気?」
 もう一人の子が私のことを睨みつけた。私はその目を見た途端、怖くて声を出せなくなった。
「何これ、超へったくそー!」
 絵をひったくった子が大声で言った。他の二人も画用紙を覗き込む。
「うわ本当だー! どうしたらこんなに下手に描けるの? ある意味才能?」
「知ってる? 今回の絵は全部廊下に飾るんだよ。あんた笑いもの決定でしょ」
「これ、コスモスに全然見えなーい。ていうか、花にも見えないしー」
「あんたって、何やっても本当にダメだよねー。一つくらい取り得ないわけ?」
 一言一言が私の心に突き刺さり、傷をつくった。
 あははは、と三人の大きな笑い声が辺りに響き、私は耳をふさぎたくなった。
 やめて。やめて。やめて。心の中で必死に叫んだけれど、相手に伝わることはなかった。
 すべては悪夢のような現実で、私は涙をこらえ、唇をぎゅっと結んでいる事しか出来なかった。
 私だけの大切な世界が壊されていく気がした。
「何泣きそうな顔してるわけ? せっかく正直に感想言ってあげたんだからお礼くらい言ったらどうなの?」
 利奈が両手を組みながら高圧的に言った。私は何か言わなくては、と思ったが、怖くて何も言うことが出来なかった。
「何とか言いなさいよ!」
 利奈がさらにすごんできた。
「あ、ご、ごめ……」
 喉からなんとか声を絞り出そうとするが上手くいかない。このままでは余計怒らせてしまうだけだとわかってはいても、どうする事も出来なかった。
「ねえ利奈、こいつなんかほっといて、もう行こう? 図工の時間もったいないし」
「……そうだよね。行こっか」
 取り巻きの子に利奈は少し考えてからそう言うと、私の絵を地面に投げ捨てた。
 この場はなんとか切り抜けられる、と私がほっとしたのもつかの間。
 利奈が、私の水入れを足で蹴った。
「あっ!」
 倒れた水入れからこぼれた絵の具で汚れた水が、私の絵一面に一瞬にして広がった。
「あ、ごめーん。ちょっと足がぶつかっちゃったみたい。でも、そんなところに水入れを置いとくあんたが悪いんだからねっ」
 利奈はそう言うと、あとの二人を連れて満足げに笑いながら行ってしまった。
 私は突然のことにパニックに陥った。
 雑巾で水を吸い取ろうにも、運悪くその日は雑巾を持ってなく、外のため近くに代わりになりそうな物も見当たらなかった。教室まで取りに行っても戻ってくるまでに絵は完全に修復不可能になってしまうだろうし、私に雑巾を貸してくれるクラスメートなどいるわけもないし……と私は絶望しかけていた。
 その時。
「これ、使えば」
 声と同時に、半泣きになっていた私の目の前に、す、と雑巾が差し出された。驚いて顔を上げると、声の主であった渡部君はただ一言「早く」と言った。
 私は渡部君にせかされるまま、雑巾で絵に広がった水を必死に吸い取った。けれど、大体の水を吸い取った頃には、絵はすでに絵の具と水でぐしゃぐしゃに汚れてしまっていた。
 私が何時間もかけて描いた絵は、一瞬にして見るも無残な状態にされてしまった。そして私の心も、くやしさと怒りと悲しみでぐちゃぐちゃになりそうだった。
「雑巾、本当にどうもありがとう。新しいの買って明日返すから……」
 私は渡部君の方を振り向くと、今にも溢れそうな涙をなんとか押しとどめて笑顔で言った。
 もうこの絵を綺麗だった状態に戻すことは不可能だろうし、残りの時間で新しい絵を描くのはどう考えても無理だ、という絶望感が、じわじわと心に広がっていった。
「諦めるの?」
 渡部君はそんな私を射抜くような目で見つめながら、唐突にそう言った。
「絵、下手だって言われたら、水浸しにされたら、努力もしないで諦めちゃうの?」
 突然の問いに、私はすぐには答えられなかった。
「ねえ、そんな簡単に諦められるの?」
 渡部君は再確認するように私に問い掛けた。
『諦められるのか?』その言葉は私の心の奥にまで響いた。
 何時間も思いを込めて描いてきたコスモス。きっと良い作品になると思ってきた。最高に楽しかった時間も、絵に込めた思いも、なくしてしまうことなど、諦める事など、出来るはずがなかった。
「出来ないよ」
 私は涙を目にためたまま、きっぱりと渡部君に言った。渡部君にどう思われようと構わないと思った。それが私の真実だったから。
 けれど。
「良かった」
 渡部君はそう呟くと笑顔になった。
「田中さん、頑張ってその絵、完成させなよ。そんなに上手いんだから、ね」
「え……」
   私は初めて見る渡部君の笑顔と思いがけない言葉に呆然とした。そんな私にもう一度笑顔を向けると、渡部君は自分の場所へと戻っていった。
 私が次に渡部君を見た時には、彼はさっきの笑顔は夢だったのかと思うような、いつものぼーっとした顔に戻っていた。

 それからの三時間、私は必死に絵を修復した。
 一度水浸しとなった画用紙を破いてしまう事のないように、注意深くもう一度色を塗り直し、汚れてしまったところには花などを書き足してなんとかごまかした。一度ぐちゃぐちゃになってしまった絵を綺麗な状態に戻すのは思った以上に難しく、私は無常に過ぎ去る時に何度も作業を投げ出したくなった。
 けれどそんな時、なんとなく渡部君が私を見ていてくれているような気がして、彼の言葉を思い出し、もう一度やる気を奮い立たせ、ぎりぎり時間内に絵の完成までこぎつける事が出来た。
 完成した絵は水浸しにされた影響をほとんど残さず、満足のいく出来栄えとなっていた。私は精一杯やり遂げた、という満足感でいっぱいだった。
 利奈達は私の絵の完成に驚きながらも、これ以上私に騒がれたら困ると思ったのか、何も言ってはこなかった。
 嬉しい事はそれだけにとどまらなかった。
 私が描いたコスモスの絵は、校内展覧会でなんと最優秀賞をとり、その後出品された県のコンクールで優秀賞という成績を収めたのだった。これには、自信作だったとはいえ、私自身とても驚いた。
 やっと私のやりたいことを見つけられた気がした。
 私は渡部君に「ありがとう」をずっと言いたいと思いながらも、相変わらずクラスから浮いている彼に話し掛ける勇気が出ず、何も言うことの出来ないまま秋は過ぎ、年がかわり、小学校卒業と同時に私は再び転校する事となってしまったのだった。

   *     *     *

 大学の次の課題が「秋」だと聞いた時、私は一番にこの小学校で描いたコスモスを思い出した。私が夢への一歩を踏み出したあの秋。大学生活最後の秋である今、描くならあのコスモスしかない、と私は確信した。
 私がこの小学校に花壇のコスモスを描かせて欲しいと電話で頼むと、事務の人は、なぜわざわざそんな遠くからうちのコスモスを、と訝しげに訊いてきた。私はそこが自分の母校である事、十年前そのコスモスを描いたことなどをかいつまんで話し、なんとかこの花壇のコスモスを描く許可を得た。
 今、目の前の花壇には、あの頃と同じようにコスモスの花が咲き誇っている。吹くのはあの頃と同じ秋風。
 渡部君が今もこの町にいるのかどうか私は知らない。もし会おうと思えば簡単に会えるのかもしれない。
 でも、私は思うのだ。いつか私が一人前の画家になる事が出来たら、その時また彼に私の描いたコスモスの絵を見てもらいたい、と……。



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