ガラスのような夢の始まり おとぎ話のようなハッピーエンドに憧れないわけじゃない。 だけど、魔法で変身した一夜に王子様と恋に落ちて、落としたガラスの靴のおかげで見つけてもらえる。そんなシンデレラなんかにはなれないと思った――。 * * * 『この紙を拾った方、クリスマス・イヴの夜12時になるまで、僕と付き合ってもらえませんか? その代わりに、あなたの夢を叶えるのをお手伝いします。 条件は、クリスマス・イヴの夜だけで叶えられる夢であること、このことを他の人に話さないこと、それだけです。 もし協力してもらえる場合は、12月24日の午後6時にT駅前の広場までこの紙を持って来て下さい』 その紙を見つけたのは、大学の図書館でゼミ発表の資料を探していた時だった。ドイツ建築の本が並んだ段の右端、本2冊分の空きに、それは折りたたんで置いてあった。 大学という場所には似合わない、子供っぽいいたずら。だけど、今時こんなちっぽけな紙に可能性を託したのなら、面白い、と思った。 クリスマス・イヴは、明日。大学も今日から冬休みに入って、二人きりで過ごす特別な相手も、パーティー好きの友達もいない私には、特別な予定はない。 こんな紙に書かれたことを信じるリスクくらい、大学生になればわかる。けれど同時に、二十歳を超えた私は、運悪く事件に巻き込まれても、自己責任だと思う程度には、もう大人で。 これを書いた人に会いに行ってみようと決めた。誰にも言ったことのない、ちっぽけな夢を叶えられることを、少し期待して。 * * * 指定された駅についたのは、約束の15分前。 服装は、裾サテンの黒のニットワンピースに、ファーのついた千鳥柄のコート。焦げ茶のショートブーツに黒タイツ。爪にはローズ色のラメ入りネイル、まつげは丁寧にカールさせて、アイシャドウは華やかなピンク。お嬢さんスタイルに合うように、髪はもちろん巻いた。 普段ほとんど外で遊ばない私は、気合いを入れないと人込みの中にいられない。まして、知らない男の人の前になんて立てない。 あの紙を持って約束の広場に向かう。楽しそうにキラキラ笑う恋人たちや、子供連れの家族や、女の子の集団の中をかいくぐって。 イルミネーションが施された木の前に立っていたのは、見るからに怪しい男の人でも、誘いに引っかかった私を見て笑う人たちでもなくて。 普通の、あえて言うならちょっとまじめな感じの、同い年くらいの男の人だった。 彼が近づいた私に気づいて、顔をあげる。私は、彼を見つめながら紙を差し出す。 「君が、あの紙を拾ってくれたんだ。来てくれてありがとう」 彼は、来たのが私だったことに残念そうな様子を少しも見せず、笑った。 「はじめまして。同じ大学の人、だよね?」 私の問い掛けに彼は頷いて、尚、と名乗った。 「今日が終わるまでのあと6時間だけ、その名前で呼んで。僕も、君が嫌じゃなければ名前で呼ばせてもらえないかな?」 不自然なのに自然な言葉は、すべて今だけのものだから。 「彩、でいいよ」 そうして私たちは笑い合って、お互いの名前を呼ぶ。私は、久しぶりに男の人に呼ばれる自分の名前を、どこか愛しく思いながら、彼に促されて歩き出す。 * * * 駅前広場をあてもなくゆっくり歩きながら、尚が半歩後ろにいる私を振り返る。 「彩の夢は、何? すごくお金のかかることとか、誰かをむやみに傷つけることじゃなければ、何でも協力するよ」 私が今夜、尚と過ごすリスクと引き換えに、手に入れられるもの。 「私がどんな夢を言っても、尚は人に言わないんだよね?」 「そう、紙に書いた通り、今日あったことはすべて秘密にする。彩が条件を守る限りは」 私は足を止めた。 「それなら、一人じゃ一生手に入らないもの、今日が終わるまででいいから、それを手に入れたい」 無邪気におねだりするように、ちょっと首を傾げて尚に笑いかける。 「一人じゃ一生手に入らないもの、ね。たくさんある気がするけど……いいよ、協力する」 まずは? と聞かれた私は、左手を夜空にかざして「ペアリングがほしい」と答えた。 「ペアリング?」 「そう」 ただの物、と言ったらそれまで。それでも私は、幸せになることが決まったような笑顔を見せるクラスメートの、その薬指にさりげなく輝くリングを見た時から、それが欲しかった。 「わかった、じゃあ駅ビルに行こう」 その言葉を合図に、私たちは人と光の集まる建物の中へと入っていった。 * * * ジュエリーショップは、友達とのショッピングで時々のぞく場所。お店自体が宝石箱のように輝いていて、楽しい。輝きの中で、自分の大切な宝物を見つけられそうな気分になる。 クリスマス・イヴで、店内は予想通りカップルでいっぱいだった。その中で、カップルの振りをした私と尚は、一緒にペアリングを探した。 有名ブランド店でなくとも、大人向けのジュエリーショップのものは安くない。この時にしか叶えられない夢ならば好きなものを選びたいけれど、普通の大学生である私には、大粒のダイヤなんて手が出ない。 「彩、このクリスマス限定リングはどう?」 そう言って尚が示したのは、クリスマスカラーの布で飾られたショーケースに入った、ダイヤが一粒ついたシルバーのペアリング。女性用のものにはピンクゴールド、男性用にはブラックのコーティングが施されているらしい。価格は二つ合わせて2万円。上品な色合いと、背伸びしすぎないシンプルなデザインに私は惹かれた。 無料の刻印サービスがあると店員さんに聞いて、私と尚はそれぞれのリングの内側に「2007.12.24」と彫ってもらった。二人で1万円ずつ払って、出来上がったリングを受け取る。 「今日だけ、今日だけでいいから、尚もそのリングをはめててもらえる?」 私の願いは、今日初めて会った相手に対して多分非常識なものだったけれど。 「もちろん」 尚は笑いながらそう言って薬指にリングをはめた。意外に細くて長い指を飾るリングの黒は、ダークブラウンのコートによく合っていた。私もつられるように薬指にリングを通して、その輝きを見つめる。 それは、初めて手に入れた、ただ一人の人とつながっている印。 * * * 次は? と聞かれた私は「とりあえずご飯」と笑って答えた。 入ったのは、ガラス張りで外のイルミネーションがよく見える、ちょっと洒落たレストラン。もう少しで満席という店内にはクラシックが流れ、テーブルの上にはキャンドルが用意されていた。 私がクリスマスディナーではなくオムライスだけ注文すると、尚も同じものを頼んだ。 レストランにいる間、お互いがいつか行ってみたいと思っている場所について話した。私が挙げたのは、ドイツのケルン大聖堂、尚が挙げたのは沖縄。 私はゴシック様式の壮麗さを語り、尚は海底洞窟の探検の面白さを語った。 大学のことは話さなかった。話しても、意味なんかないと思った。 穏やかな音楽が響く中で、キャンドルの炎と、イルミネーションを見つめて。おいしいものを一緒に食べながら、夢を語る相手がいる。それだけで、それだけが、良かった。 食事を終えた私は尚に「コンビニに行きたい」とリクエストした。 「コンビニのケーキを食べたいの」 「もっとおいしくてオシャレなケーキを食べられる店なら、駅ビルの中にいくつもあるのに?」 不思議そうに聞く尚に、私は「コンビニのケーキが、一人じゃ一生手に入らないものの一つだから」と答えた。 駅ビルから歩いて3分のコンビニで私は、サンタクロースの衣装を着た店員が売るデコレーションケーキではなく、メリークリスマスと書かれた葉っぱの飾りがついただけの、2個入りのショートケーキを買った。 駅前広場に戻って空いているベンチに二人で座る。そうして買ってきたばかりのケーキを膝の上に置いて、プラスチックのスプーンで食べた。そっと、崩れてしまわないように。 単純な甘さが、優しい気持ちを生むような気がした。 「当たり前のように二つ入ったコンビニのケーキを、一人暮らしじゃ食べれなかった。甘いもの、大好きなんだけどね」 そう言った私に、尚は「僕も、甘いもの好きだよ」と笑った。 * * * 広場にはメリーゴーラウンドが特設されていた。色とりどりの装飾が施された馬と馬車が、誰も乗せないまま回り続け、そこから暖かい光があふれている。 その周りに並び立つのは、金や銀、ピンクや青にライトアップされたツリー。そして、金色の小さな鐘と緑の葉で飾られたアーチ。すべてがおとぎ話のような空間を作り出していた。 私たちはベンチに座ったままそれを見つめていた。 「今、この時間は、尚にとってどんな意味があるの?」 静まっていく空気の中で私は尚に聞いた。私の夢に付き合うだけで楽しいの、と。 「一人じゃない、彩と一緒にいるっていう意味があるよ」 尚は広場の光から目を離さずに言った。 「今この瞬間、自分に気持ちを向けてくれている人がいる。たとえそれがただ一人の相手への好きっていう気持ちじゃなくても、それって嬉しいことじゃない?」 ああ、尚も寂しいのか、と思った。それは驚きではなく。胸にポタリと落ちて、しみこんでいくような感覚だった。 楽しい瞬間が続くと信じられないから、誰のことも心の中に入れない。離れても傷を感じずに笑っていられるように。それでも時々一人の心が冷たくなるから、誰かに側にいてほしくて。 多分この世界に、寂しくない人なんていない。 「手をつないでもいい?」 ふいに温もりに触れたくなって、私は尚に尋ねた。 「君にとって、触れて不快でない程度の他人なら」 そっと目を向けて笑う尚に、他人じゃない、と言いたい衝動に駆られた。 だけど、尚とは今日数時間前に初めて会って、クリスマス・イヴの時間を少し共有するだけ。慣れたように名前で呼び合っても、そこには過去も、未来もない。 私は一度目をつぶって、ゆっくりと開いた。 そして自分から尚の手を取り、イルミネーションの中へと誘った。 それから私たちは、クリスマス期間で夜12時まで営業している駅ビルでウィンドウショッピングを楽しんだ。 四葉のクローバー柄のビーズクッション、黒の懐中時計、バラの形のフロートキャンドル、背丈ほどある観葉植物、原色のアジアン雑貨、高級万年筆、靴のモチーフのついたネックレス……。 お互いの気になったお店に片端から入って、途切れることなく笑顔と言葉を交わした。途中で手が離れてしまっても、気づくとまたつないでいた。 * * * 11時半を過ぎた頃、私は尚を連れて楽器屋に向かった。 「私から尚へのクリスマスプレゼント。そして、今日付き合ってくれたお礼」 展示されている木製のピアノの前に座り、鍵盤に手を置く。 弾き始めたのはシューマンの「トロイメライ」。静かで優しい、この曲の持つ意味は「夢」。 まるでキラキラとした夢の中にいるようで、それでいて夢の終わりを告げるような、この曲が好きだった。きっと尚もどこかで耳にしたことがあるだろう。 ゆったりとしたリズムで、一音一音に気持ちを込めて、大切に奏でる。左手の薬指に輝くシルバーリングについ笑みがこぼれる。 浮かぶのは、回り続けるメリーゴーラウンドだったり、コンビ二の甘々なケーキだったり、左手に感じていた温かさだったり。 途中少し切なさを滲ませて、最後には穏やかな明るさで締めくくった。 「ピアノ、上手いんだね。どれくらいやってたの?」 軽く拍手をして尚が尋ねた。 「高校に入るくらいまで。そんなにまじめに練習してたわけじゃないんだけど。大学に入ってからふと弾きたくなって、ピアノ同好会に入ったの」 そう言うと私は気持ちを切り替えてまたピアノに向かった。 誰でも知っている有名な「エリーゼのために」や「トルコ行進曲」に、お気に入りのブルグミュラーの練習曲「アラベスク」や「貴婦人の乗馬」を挟んで、一息に演奏する。 時に楽しげに、明るく、力強く、透明に、切なく、高貴に。さまざまなメロディーが、気持ちがあふれて、そのすべてが大切で。隣には、ピアノと私だけで完結してしまいそうな世界を、見守っていてくれる人がいる。この時間が続けばいい、と思った。 いつの間にか時計の針は12時まで残り少しを指していた。 「最後の一曲は、私の一番好きな、リストの『ラ・カンパネラ』」 黙って私のピアノを聴いている尚に笑いかけて、「鐘」という意味を持つ曲を奏で始める。 技術的にかなり難易度の高い曲で、簡単に編曲されたものでも、暗譜して間違えずに引くことは私にとって困難だ。 それでも、どうしても尚に聞いてほしかった。私が鳴らす、夢の終わりを告げる鐘を。 研ぎ澄まされた高音。オクターブ以上の跳躍。早く打ち鳴らされる鐘。ガラスのように繊細で。それに感じるのは、複雑さの中で貫かれる意志、何物にも侵しえないからこその美しさと、寂しさ。 終わりに向けてだんだんと強く。最後は流れるように、思いのすべてを込めて、一番の強さで弾ききった。 ほぼ同時に、閉店のアナウンスが流れた。 * * * 最初と同じ駅前の広場。約束された別れに、時間はいらない。もしこれから先、大学ですれ違っても、尚は私に気づかないだろう。 「ねえ、クリスマス・イヴの夜を一緒に過ごして、あなたの夢は叶ったの?」 「……僕の夢は、君が待ち合わせに来てくれた時に、叶ったんだ」 尚が私の目を見て答えた。私は、今日まだ見ていなかった表情だ、と思った。 「それは、さっき話してくれたように、一緒に過ごす相手が出来たから?」 「……それは、ちょっと違う」 見つめた瞳に宿る意思に圧倒されて、私は言葉を止めた。 少しの沈黙のあと、「ありがとう」と「さようなら」を言い合って、私たちは別れた。 * * * 年が明けて最初の授業の日。私は大教室の外に一人立っていた。時刻はもうすぐ午後6時。 授業終了のチャイムと同時に人がばらばらと出てくる。友達としゃべりながら出てきた一人が、私に目を留めた。 魔法の解けた今日の私は、シルバーフレームのメガネに、肩より少し長いストレートの黒髪。服装は紺のピーコート。化粧はリップぐらいしかしていない。 「今岡尚、さん」 私はクリスマス・イヴの日以来、初めて会った尚をフルネームで呼んだ。そして、彼の目を見つめて言った。 「あなたの夢は、私とクリスマス・イヴを過ごすことだった」 ――考えてみれば、簡単なことだった。すべては、仕組まれた運命だったんだと。 「今度は、私があなたを待ってた」 左手を胸の前に持っていく。その薬指に輝くのは、あの夢の日に手に入れたシルバーリング。 尚がゆっくりとこっちへ歩いてきて、私との距離が縮まっていく。 無言のまま尚が胸元から取り出したのは、シルバーチェーン。その先に通してあるのは、ブラック加工のリング。 「はじめまして、佐伯彩さん」 あの夜の数時間で何かは確かに変わったけれど、それが形になるまでにはまだ時間が必要で。 それでも。 招待状が自分宛のものだったと気づいたシンデレラは、自分で王子様を見つけ出し、その唇にキスをする。 王子様によって創られた夢の時間は終わって、ここから新しい夢が始まる。 |
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