暖かい春が来るまで


 誰よりも近くにいたのに遠くなってしまったあなたに、もう二度と近づけないと思っていた――。

   *    *    *

 私の家の隣にあった空き地に家の建設が始まったのは、去年の初夏のことだった。
 そこが売りに出されたのはその二年以上前だったのだけれど、日当たりがあまりよくないために、それまで買い手がついていなかった。
 私の部屋が空き地に面している事もあり、両親は、中三の夏という受験生にとって大事な時期に工事の音がうるさくて困るのではないかとばかり心配していたが、そんなことは私にとってどうでもいいことだった。
 私が心配していたのは、私の部屋から向かいの家が見えなくなること、ただそれだけだった。

   *    *    *

 私が絵理奈と初めて出会ったのは、小学校の入学式の日だった。
 出席番号が一つ違いで、教室で最初に座らされた席が前後だったため、私達は小学校に入って一日目からすぐに仲良くなった。  
 そして、帰る時になって私は、彼女の家が、私の家から空き地と道路をはさんで向かいにある家であることを知り驚いた。なぜ今まで会ったことがなかったのか不思議に思って尋ねてみると、彼女は、小学校入学と同時にそこで暮らすようになったのだと答えた。
 その日以来、私とエリナは毎日登下校を共にするようになり、それはクラス替えが行われても変わることなく小学生の間ずっと続いた。私の小学校の思い出には全部エリナが登場するくらい、小学生の時の私にとって、エリナは一番大切ですべてだった。
 けれど、中学に入って私とエリナの関係はいっきに崩れた。
 元から明るく誰とでも仲良くなれ、勉強でも運動でも何でもよく出来たエリナは、他の小学校出身の子ともすぐに打ち解け、学級委員としてクラスの中心人物となっていった。一方私は、中学という新しい環境に馴染めず、一人クラスの輪に入れず孤立していった。
 そんな私をエリナは心配し、休み時間などに出来る限り隣の私のクラスまで来て、私が一人にならないように共に過ごしてくれようとしたが、私はそれを憐れみであるかのように感じ、エリナと距離をとるようになった。
 そして、エリナがバスケ部のレギュラーとなり、練習のため共に登下校することが出来なくなったのを機に、私達二人はどんどん離れ、関係はもはや修復が不可能なほどになっていった。
 その関係が完全に崩れ去ったと感じたのは、教室にストーブが設置されたばかりの冬の日だった。
 その朝、私が朝練を終えたばかりのエリナと廊下ですれ違った時、エリナは私の方をちらりとも見ず、部活仲間と談笑し続けていた。
 私にあの明るい笑顔でおはよう! と言うことなく。
 私は心のどこかで、エリナが私に声を掛けてくれることを期待していた。だから自分からは何も言わず、ただ待っていたのだ。エリナが笑顔で声を掛けてきてくれたら、以前のように笑顔でそれに答えようと思いながら。
 そうしたら、今までのぎくしゃくした関係が終わるだろうと期待して。
 私の愚かな期待が無残に裏切られ、エリナと目を合わすことなくすれ違った瞬間、私はもう駄目だ、と思った。私はそのまま廊下に座り込んで大声で泣きたい衝動に駆られた。
 六年間という長い時間をかけて大切に積み上げてきた関係が、こんなにもあっさりと崩れ去るものだという事実は、そんなにまでも私を打ちのめしたのだ。
 私は自分の愚かなプライドのために、どれだけ大切なものを失ったのか、その時初めて悟った。
 けれど、衝動のままに廊下で泣き出すなど中学生にもなって出来るはずもなく、私はこらえきれないほどの悲しみを持て余したまま、その日一日を過ごした。
 二、三日家で泣き明かしてから、私はもうエリナとの関係は戻らないのだと自分に言い聞かせ、思い出を風化させようとした。それからしばらくはエリナとすれ違うたびに涙が出そうになったが、だんだんと悲しみにもなれ、平常心を保てるようになっていった。
 その後中二となった私は、クラス替えでエリナと一番離れたクラスになり、やっとクラスの中で親しいと言える友達を作る事が出来、このまま私の中でエリナという存在はどんどん薄いものになり、やがて消えるのだろう、そう、思っていた。
 あの、秋の日までは。

 その日私は、部活が珍しく長引き、学校から家に帰るのが遅くなったため、帰宅後二階の自分の部屋に行くことなく晩御飯を食べ終え、テレビを見てお風呂に入ったので、自分の部屋に行った時にはすでに九時をまわっていた。
 部屋の電気をつけると、レースのカーテン越しに外から部屋の中の様子が丸見えになってしまうので、電気をつけずに青いカーテンを閉めようとした時、私の目に、向かいの家の二階の、明るい窓が飛び込んできた。その部屋がエリナの部屋であるということを私は知っていた。
 私はよく分からない衝動に駆られ、部屋の電気をつけないまま窓に張り付いて、レースのカーテン越しに向かいの窓をしばらく見ていた。
 向かいの窓のオレンジ色のカーテンからもれる明るい光を見ていると、昔訪れた時のその部屋の様子と、机に向かって勉強をしているエリナの姿が自然と頭に浮かんできた。
 エリナが学年でトップを争うくらい勉強が出来るのだということを、私は噂で聞いていた。
 負けたくない、となぜか思った。エリナにだけは負けたくない、と。
 その日から、私は毎晩向かいの窓を観察しては、そこに明かりがついている間、私も自分の部屋で勉強をするようになった。
 もともと夜に弱かった私は、幾度となく睡魔に襲われたが、その度にカーテンをめくって向かいの窓の明かりを確かめ、エリナがまだ勉強しているのだから、私もまだ頑張れる、と気合いを入れ直して、向かいの窓の電気が消えるまで勉強し続けた。
 向かいの窓に明かりがつくのは、大体毎晩八時から十時半くらいまでで、そのことから、エリナも私と同じで塾には行っていないのだということが分かった。
 そんな風にがむしゃらに勉強し始めた私の成績は、中三になった頃には、平均的だったものからクラスの上位に食い込むまでになっていて、このままいけば上位の高校も狙えると、担任や両親は驚きを隠さずに私のことを誉めた。
 けれど、エリナがテストですごく良い点をとったとか、学年一位をとったとかそういう噂話が聞こえてくる度に、私は彼女に負けまいと、より懸命に勉強に取り組んだ。中三になってから向かいの窓の明かりは夜の十一時くらいまでついているようになっていて、私はエリナが今まで以上に勉強をし始めたということを知っていた。
 そんな風に私がエリナの部屋を一方的に観察し、勉強するようになっても、私達二人の関係は何一つ変わらず、相変わらず廊下ですれ違っても声を交わすことさえないままだった。

   *    *    *

 隣の空き地に家の建設が始まって、秋も深まった頃、とうとう私の部屋からエリナの家はほとんど見えなくなった。一年くらいの間向かいの窓を観察し続けてきた私にとってそれは何とも物足りず寂しいことだったが、受験勉強を今更やめることが許されるはずもなく、また私にとって毎日勉強するのは習慣となっていたため、エリナが勉強していた時間、私は一人受験勉強を続けた。
 寒さが厳しくなっていくにしたがって、もうすぐ受験シーズンも本番になるのだから、きっとエリナはもっと勉強するようになっているだろう、と思うようになり、私の勉強時間は日に日に長くなっていった。たとえ向かいの窓の明かりが見えなくなっても、エリナが勉強する姿は何度となく私の頭に浮かび、私を勉強へと駆り立てた。
 その頃にはもう私の第一志望は、エリナが目指していると噂されていた県下屈指の進学校に決まっていた。
 エリナには負けたくない、ただその思いだけが、私を動かし続けていた。
 二月、私が受かるには少し厳しいのではないかという担任の反対を押し切り、私はエリナと同じ高校を受験した。出願日や受験日にエリナとは会ったが、私達はお互いに目も合わさず、言葉も何も交わさなかった。

   *    *    *

 今日は、第一志望の高校の合格発表日だ。
 私は周りの様子を気にする余裕もなく、一人、高校に向かってただ必死に歩いていく。一刻も早く合否を知りたいと焦り高鳴る気持ちと、結果を知るのが恐くてためらう気持ちの狭間で私の心は揺れ、今にも壊れてしまいそうだった。
 今日、あの秋から始まったすべての決着がつくと、私は確信していた。
 エリナの部屋の窓の明かりを見たあの日から、私は風邪で体調を崩しても、すごく見たいテレビがあっても、一日として休むことなく、向かいの窓に明かりがついている間勉強し続けた。向かいの窓が見えなくなってからは、向かいの窓に明かりがついていた以上の時間、毎日勉強し続けた。
 何で私はそうまでして勉強なんかしているのだろうか、と自問したことは数え切れないくらいある。その度に私は、「エリナにだけは負けたくないから」とひたすら自分に言い聞かせてきた。   
 じゃあ、なぜエリナには負けたくないのか? そのわけは……。 
 やっと目的の高校に着くと、正門の所の時計は十時五分ほんのちょっと前を示していた。合格発表開始は十時ちょうど。十分間に合う時間の電車に乗りここまで歩いてきたはずなのに、無意識にいつもより歩くのが遅れてしまったようだ。
 高校の正門をくぐり、人が込み合っている体育館前の発表場所へと向かう。心臓がより早い鼓動を打ち、緊張がピークへと近づいていく。そんな私の目に、少し離れた場所で、張り出された発表を見て友達と歓声を上げて喜んでいる子や一人静かに泣いている子などの様子が入ってきた。
 ここを出る時、私は一体どんな顔をしているのだろう? あそこにいる女の子のように、満面の笑顔でいられるのだろうか?
 そんな思いが頭の中をよぎったその時、私は人込みの中にエリナの姿を見つけた。
 エリナは合格番号が羅列されている掲示物に見入っていた。頭を上下する様子から、何度も確認しているのがわかる。 もし二人とも受かっていれば、エリナの番号の隣に、一緒に受けた私の番号があるはず。
 ふいに、エリナが周りを見渡すような仕草をした。そしてすぐに、エリナのことを見つめていた私に気づいた。
 私達二人の目が、合う。
 一瞬、時が戻った気がした。お互いのことを誰よりも大好きだと二人笑顔で言い合っていた、小学生の頃に。お互いがいつまでも近くにいると信じていた、あの頃に。
 私達が離れてからもう三年近い時が経ち、今やっと私達は、本当に久しぶりに真っ直ぐにお互いを見つめていた。
 そらせない視線。そらした瞬間に、私を取り巻いている世界が、すべてが崩れてしまいそうな気がした。
 私の瞳に映るのは、エリナの姿、ただ、それだけだった。
「かずみちゃん!」
 エリナが叫んだ。私の名を呼ぶ懐かしい声は、私の意識を現実へと引き戻した。
 エリナは私を見つめたまま、周りの人ごみをかき分けて私のところまで走ってきた。すごく速く。私はただその場に立ち尽くしたまま、呆然と、走ってくるエリナを見つめていた。
 私達二人の距離が縮まり、そして、ゼロになる。
「カズミちゃん、私達、二人とも、受かったよ!」
 エリナが私の前まで来て、息を切らせて言った。
「私達、一緒に、同じ高校に、行けるんだよ!」
 エリナは、泣いていた。エリナの頬からこぼれ落ちた涙の粒が、彼女のコートを濡らしていく。
 一緒に、同じ高校に、行ける。
 エリナの言葉がじわじわと私の心に浸透し、一番奥に届いた瞬間、私の目からも涙が溢れた。
「エリナ……!」
 私はエリナに抱きついた。今までの距離や、離れていた間に過ぎ去った長い時間に躊躇させられることなく、ただ衝動のままに。
 エリナはちゃんと、そこにいた。そして私を、あたたかい手でしっかりと受け止めてくれた。
 ずっと、輝いているエリナに相応しい自分になりたかった。
 そうなれなかったら、エリナの心の中に私の居場所は作れないと思っていた。
 一度、エリナの優しさを拒絶してしまった私には。
 だからあの秋の日からずっと、私はエリナに追いつけるように勉強し続けた。もう一度、エリナの隣に居られるようになりたいと思いながら。
「ねえ、今度は、ちゃんと、一緒にいられるよね?」
 エリナが涙を貯めた目で、私を見て言った。
 エリナもずっと私を待っていたのだ、と私はやっと悟った。エリナも私と同じように、私に拒絶されるのを恐れ、今まで勇気を出すことが出来なかったのだと。
 あの、すべてが崩れ去ったと思った日に、相手に対して期待していたのは、もしかしたら私だけではなかったのかもしれない。
 私達の間にただ機会がなかったために、私たちはすれ違ったまま孤独を抱え、長い時を過ごしていたのだろう。
 春になった今、寂しかった時は、もう、終わるのだ。


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